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元徽 (北魏) : ウィキペディア日本語版
元徽 (北魏)[げん き]
元徽(げん き、490年 - 530年)は、中国北魏皇族。城陽文献王。は顕順。
== 経歴 ==
城陽懐王元鸞と乙氏のあいだの子として生まれた。宣武帝のとき、城陽王の爵位を嗣いだ。游撃将軍の位を受け、河内郡太守として出向した。
孝明帝のとき、右将軍涼州刺史に任じられたが、僻遠の地を嫌って赴任しなかった。散騎常侍の位を受けた。この年、後将軍并州刺史に任じられた。并州に夏霜が降り、凶作となって民衆が逃散すると、徽は無断で官倉を開いて穀物を配給した。後になって朝廷に報告したが、孝明帝は徽の行為を賞賛した。安北将軍の位を加えられた。後に安西将軍・秦州刺史に任じられたが、固辞した。輔国将軍の位を受け、度支尚書を加えられ、鎮軍将軍に進んだ。このころ北魏の官軍はたびたび敗北して苦境にあり、徽は軍費として絹2千匹・粟1万石を献上しようとしたが、孝明帝が受け取らなかった。本官のまま吏部尚書を兼ね、侍中・征東将軍の位を加えられ、衛将軍・右光禄大夫に転じた。尚書左僕射に任じられ、車騎将軍儀同三司に転じたが、固辞して受けず、侍中の位を解いた後に受けいれた。まもなく尚書令に任じられた。開府・西道行台を加えられたが、赴任しなかった。
霊太后の臨朝称制のもと、朝廷の綱紀はゆるんだが、徽は重任にありながらこれを正すことなく、鄭儼らと党与を結んでいた。外面は穏やかで慎み深かったが、内心は猜疑深く、怒りを抱くと必ず報復におよんだ。また妻の于氏が広陽王元淵と姦通するのを防ぐことができなかった。
528年武泰元年)4月、孝荘帝が即位すると、司州牧に任じられた。同年(永安元年)9月、司州牧を兼ねたまま司徒に上った。529年(永安2年)5月、元顥洛陽に入ると、徽は孝荘帝に従って河内に入った。7月、孝荘帝が洛陽に帰ると、侍中・大司馬太尉公に任じられた。11月、太保・司徒公となった。
530年(永安3年)9月、孝荘帝が爾朱栄を殺害すると、徽は太保・大司馬・宗師・録尚書事として北魏の朝政を総覧した。12月、爾朱兆が洛陽に入ると、禁衛の兵は逃げ散り、孝荘帝は歩いて雲龍門を出た。徽が馬に乗って逃れようとしたので、孝荘帝が呼びとめたが、徽は顧みることなく去った。山南に逃れて、故吏の寇弥の邸に入った。寇弥は徽を受け入れたが、爾朱氏による追捕をおそれて他所に避難させようとした。徽は路上で人に殺害され、遺体は爾朱兆のもとに送られた。
孝武帝の初年、使持節・侍中・太師・大司馬・録尚書事・司州牧の位を追贈された。は文献といった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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